• ネゲーション、ネゴシエーション、スーパーポジション
    外界との「つきあい」を思案する演劇 (1/2)

    • 2013/07/10
    • レビュー | 岩城京子

    私たちの足もとに広がる静穏で不穏な大地同様、チェルフィッチュの最新作『地面と床』は、複数の地層の堆積により形成されている。例えば、もっともたやすく見てとれる層群は舞台構造のそれだ。最底部には劇場が建つ「地面」が横たわり、その地面の上にリノリウムで整えられたステージの「床面」が乗り、さらにその床面の上に能舞台を彷彿とさせる板張りの「舞台面」が組み立てられる。しかもここで着目すべきは、漆黒のリノリウムの床面と薄いパイン材の舞台面とのあいだに、数センチほど、まるで同種の磁極が互いの磁力によってジリジリと退けあっているかのような隙間が存在すること。この互いが互いに避けがたく重なりあっていながらも、同時に退けあってもいる状態。つまり見方によっては、受容とも対立とも、孤立とも共存とも、惹かれあいともつれなさともとれる矛盾含みの「つきあい」の状態が、本作ではかたちを変え何度も浮上する。つまり『地面と床』は、私と私以外のいろいろな外界物(それは人でも物でもいいのだけれど)が、従来の和を重んじる日本的な歩み寄り以上に、否定(ネゲーション)も含めた交渉(ネゴシエーション)を繰り返し、結果、幾つかの異なる状態で同時に在ることを選ぶ「スーパーポジション」(量子力学の「重なり合い」の状態。例えば猫が生きていて、かつ、死んでいることが同時に存在する)の演劇なのだ。

    遠い未来の日本、あるいはそう遠くない未来の日本を設定に取る本作では、夢幻能よろしく幽霊が登場する。舞台後方に設えられた十字架型の字幕には「舞台のうえは、幽霊が見える場所」と投射される。作・演出家の岡田利規は、前作『現在地』(2012)ではアウターワールドに飛びSFにも読める世界を描いたが、今回はアナザーワールド(あの世)にまつわるフィクションに想像力を広げたらしい。観客はすぐ、この幽霊が「2年半」まえに亡くなった兄弟(矢沢誠と山縣太一)の母・美智子(安藤真理)であることを了解する。だが長男の嫁・遙(青柳いづみ)はいきなり「幽霊がここにいるっていう存在に気づいたりしたくない」と、霊の存在を全否定する。だがセリフを幾度か読み返せば分かるように、この発話は霊の存在を心理的・物理的に認めたうえでの否定だ。霊はいる。だけど、いない。この厄介なスーパーポジション(重なり合い)の状態で遙は幽霊とつきあうことを選ぶ。岡田とドラマトゥルグのセバスチャン・ブロイは共著者として(ただし主語には「I」という一人称単数を用いて)、本作が世界初演されたクンステン・フェスティバルの当日プログラムに以下のように記している。

    「死者と生者の利害が対立する事態を見つめるために、この作品をつくりました。双方の利害関係の調整のために、もっと多大な〈外交的努力〉が払われるべきではないか、なんてことを最近ときどき思うのです。わたしたちはその努力を、ずいぶん怠っている気がします。」

    岡田は、死者の権利を無条件に受け入れるのではなく、また逆に死者の存在をまったく否認するのでもなく、亡き者たちと外交する必要があると説く。死者とギブ・アンド・テイクの関係性を作る。これはものすごく驕った意見にも聞こえる。だが初日後、ブリュッセルのカフェで行ったインタビューにより、これはじつは死者を他者としていちど丁寧に退けたうえで、距離を持って相手を見て自分を見て対話をするための、岡田なりの内省的な死者とのつきあいの術だということが分かってきた。彼は「科学とか理性とか」によって隔てられてしまった「死者を敬うという智恵」を取り戻すことが必要だと言う。そして「死者の利益を勘定に入れないことには、祟りとかいう意味ではなく、ごく現実的なしかたで、現世に不利益をもたらす」とつづける。つまり「震災と、昨年の実父の死」に深く影響を受けた岡田は、死者の存在に丸呑みされたアノミー(混沌)状態から身を引き離し、それでいながら死者を勘定に入れて生きていくために、彼らとネゴシエーションする必然性を提唱するのだ。そもそも対話というものを不得手とする日本人には、これはかなり新しい他者とのつきあいかただ。相手が死者となれば、なおさらだ。でも苦手だからこそ、岡田は今こそこうした死者との外交努力が要請されていると告げるのだ。

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