• 平成二十五年十月二十日

    • From : Berlin

    パリからベルリンに着いてみると、覚悟していたのより全然温かかった。。パリと変わらない陽気。テーゲル空港からタクシーでホテルまで。HAUから徒歩五分足らずのところにあるホリデーイン。

    HAU、というのはチェルフィッチュともっとも関係の深い劇場のひとつ。。二〇〇八年に『三月の5日間』をやった。〇九年には『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』をHAUのプロデュースによってつくったし、ここで世界初演もした。一〇年には『わたしたちは無傷な別人である』を、一一年には『ゾウガメのソニックライフ』をやった。一二年にはチェルフィッチュの本公演はなかったけれども、HAUのオーガナイズした特別イベントに参加した。テンペルホーフ、というベルリン市内の空港跡地が公園となっている巨大な巨大な敷地の一画で、HAUが一ヶ月の会期にわたって、《World Is Not Fair》と銘打った万国博覧会のパロディをやったのだ。僕はそのイベントのために《Unable To See》という小作品をつくった。
    HAUは、今シーズンから芸術監督が新しくなった(《World Is Not Fair》は、前任の芸術監督、マティアス・リリエンタール氏の送別イベントでもあった)。だから、もしかするともうHAUに来ることもなくなってしまうのかな、、なんて思ってもいたのだけれども、新芸術監督のアネミ(ベルギー人。姓は vanackere。バナケレさん? なんて読むのか実はわかりません。ファーストネームで呼んだことしかないから)麾下のHAUも、僕たちとの関係を継続してくれ、今年もこうして来ることができた。ほんとうに嬉しい。
    あした会ってミーティングする予定になっていたHAUのスタッフのひとり、クリストフ・グークさんと急遽今日の夜十時からHAUに併設されてるカフェレストラン、その名もWAU、で会うことになった。夕食をとりつつ、三日後の二十三日に行われる公開ディスカッションに向けたミーティング。グークさんが司会をして、高嶺格さんと大友良英さんと僕の三人が出演する。高嶺さんはレジデンシープログラムでベルリンに一年間の滞在中で、大友さんは二十四日にHAUでコンサートがある。震災後の各人の活動を紹介して、日本の社会の現状とか、社会とアートの関係などを話す、的な予定になっているのだけれども、ディスカッションがどんなふうに進んだらいいと思うか、僕は僕なりの考えを伝える。 

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  • 平成二十五年十月二十一日

    • From : Berlin

    スタッフは朝から仕込みを開始。僕は午前中は書き仕事して、昼過ぎに劇場へ。楽屋で一件スカイプ・ミーティング。ミーティングの内容は、まだ公にできないよう。それから、ニナ・フィッシャーとマロアン・エル・サニという二人組のドイツ人ビジュアル・アーティストと待ち合わせてWAUでお茶した。彼らが今年のあいちトリエンナーレに出品した《I Live In Fear》という映像作品の撮影に、僕は協力参加している。ちょっと出演もしてる。今日彼らから聞いたのは、テレビ塔や大聖堂なんかのあるあたりに、かつて旧東独の宮殿があった、それが老朽化やらアスベストやらで取り壊され、一時的に空き地になっていて、その場所を使ったプロジェクトを考えている、という話だった。二人は明日の『地面と床』ベルリン初日を見に来てくれるとのこと。

    僕は電車に乗って、ローゼンタール・プラッツのそばにある、やっぱりこの人もビジュアル・アーティストの、小金沢健人さんのお宅へ。家族の夕食にお邪魔して、一緒にカレーライスをご馳走になる。
    ベルリンに長く住んでる小金沢さんは、ベルリンは今でもじゅうぶんおもしろいけれど、昔とくらべると少しずつふつうの街になってきている、コマーシャルになってきていると感じているらしく、そのことが言葉のはしばしから、そこはかとなく伝わってくる。大きなターニングポイントはベルリンにスターバックスができたときだった気がする、と彼はいう。確か二〇〇五年だった、と言ってたかな、うろ覚えだけど。それ以降、周りの、それまで古着しか着てなかったような人たちが、急に洋服のブランドの話とかしはじめた、とのこと。
    僕はこないだまでいたパリのことをおのずと考える。三年前には見たおぼえのなかったスターバックスが、パリにもぽつぽつできていた。ムーランルージュの道向かいにもスタバができていて、あれはちょっとびっくりした。でもそのことと、パリの愛想がよくなってきて(しまって)いることとは、きっと連関しているのだ。入ってないけど、パリのスタバの店員が、カフェ・ウェプラーの高慢ちきギャルソンみたいな態度であるわけがない、ずっと好感のもてる接客をしてるに決まってるのだ。フランス人にだってギャルソンは愛想尽かされかけてる。だからスタバが増えているんだろう。そして、やがてガラパガゴス・ギャルソン絶滅の日がやってくるだろう、そのとき人は、失われゆく文化へのノスタルジーを抱いたりするのだろうか、まあ、なんにしても、勝手なもんだな。でも、これもこれで勝手を承知のうえでいうけど、僕は世の中からガラギャルがいなくなっても一向に困らないし、悲しくもならないよ。
    奥さんの青さんはあしたの、健人さんはしあさっての公演を、交替で子守して見に来てくれるとのこと。だいぶ遅くまでいてしまった。おいとまして、ホテルへ帰る。

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  • 平成二十五年十月二十二日

    • From : Berlin

    午後イチで役者付きで照明の合わせ。その後、音響の調整をかねて、ところどころ芝居を止めながら、最初から最後まで。ベルリンの観客の集中力は、ちょっとすごいから、そして今回の出演者はみんな以前にベルリンで公演したことがあってそのことを知っていて、ベルリンでパフォーマンスすることの楽しさを知ってるから、五人五様のしかたで、演技があからさまに進化してる。で、進化してる演技をみると、僕も僕で、だったらこうしたらさらにいいんじゃないか、みたいにアガってくる。

    開演一時間前に、ジャーナリストからインタビューを受ける。二十時過ぎ、『地面と床』ベルリン公演初日。会場にたくさん日本人がいて驚いた。ここまでたくさん来てくれたのは初めてだ。あしたのトークの登壇者のひとりの高嶺格さんも来てくれた。二十二時前に終演。例によって今夜も、ベルリンの観客の集中力は半端なかった。ありがとう。カーテンコールに僕も出る。舞台から、アネミの満足そうな顔をみることができた。その後、WAUでレセプション。たくさんの人でごった返していて、飲み物ひとつ注文するのも大変。僕らのためのテーブルが用意されて、オードブル的な食事を供してくれた。アネミも僕らのテーブルに来て、うちのメンバーたちといろいろ話してくれた。ペーター・ラウデンバッハさんという、公演でベルリンに行くと必ず見に来てくれるしいつもメールでのインタビューを雑誌に載せてもくれるジャーナリストの人が、とても興奮して僕に言ってきたのが、ハイナー・ミュラーのことだった。「ハイナー・ミュラーの言葉に『演劇とは死者との対話である』というのがあるけれど」とペーターさん。僕はミュラーのことなんてなにも知らないけれど、その言葉は知ってる。ミュラーを引き合いに出しながらこの芝居についてどこかに書く、と言ってた。ミュラーがこれを見たら好きになると思う、とも言ってた。生前のミュラーとも話したことがあるんだって。それを聞いて一瞬、うわ、すごーい、と思ったけど、考えてみりゃ、ま、ドイツ人どうしなんだし、そんなに特別なことでもないよな、日本にだって、生前の寺山修司とか土方巽とかと話したことがある人は、まだたくさんいるんだから、それと同じだよね。でも、こうして書きながら思うのは、寺山や土方と話したことがあるって、やっぱり相当すごいことなわけで、だからペーターさんがミュラーと話したことがあるというのも、やっぱりすごい、ということ。
    ミュラーの話が出て、京都公演を見にきてくれた批評家の内野儀さんの感想を思いだす。内野さんはどっちかというとこの芝居に否定的だったのだけれども、それは、演劇が死者との対話であるというのは(あと、日本語が衰えていくというのもそうだと内野さんは言っていたけど)、あたりまえ過ぎるくらいあたりまえのことなのであって、そういうあたりまえのことをやることを僕には期待していないから、ということだった。それを聞いていたときの僕はそうと気づくことができていなかったんだけど、内野さんもあのとき、ハイナー・ミュラーに言及していたのだ。
    僕はこの芝居をつくるとき、ミュラーのことなんてこれっぽっちも考えていなかった。あたりまえだ、だってちっとも知らないんだからさ。
    レセプションという場では、僕はいつも遅くまで残るのだけど(いろんな人と話すのも仕事のうちですから)、役者はパフォーマンスを終えて疲れているし、たいてい早めに帰ってしまって、それで話さずじまいになってしまったりする。でもこの日は女優三人は残っていて、だから彼女たちと話すこともできた。最近僕がダメ出しをしなくなってきているので、もっとしてほしい、とリクエストしてくれたり。その後もなんだかんだで、ホテルに戻ったのは二時だったか三時だったか(それさえおぼえていない)。

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  • 平成二十五年十月二十三日

    • From : Berlin

    今日は『地面と床』は休演で、ディスカッション・イベントが二十時からある。僕は十一時からミーティングがあったので早々にWAUへ。来年僕らが参加するドイツのフェスティバルと連携したドキュメンタリー番組をつくる予定のテレビ・ディレクター、シビル・ダーレンドルフさんと。番組ではそのフェスの参加アーティストを数人フィーチャーするらしく、その一人が僕であるらしい。というわけで来年彼女は日本に来て、稽古風景や東京の日常などを撮影するとのこと。シビルさんはミーティングのあいだ、前につくった番組ではブルキナファソに撮影に行った、と言っていたのだけど、最後にその番組のフライヤーを見せてくれ、なんとなんとそれはクリストフ・シュリンゲンジーフが最晩年に取り組んでいた、ブルキナファソにオペラハウスをつくるプロジェクトを追いかけた番組だった。まじですか、これ超見たいんですけど、と言ったら、今夜のトークを聞きに来るので、そのときに持ってくるからあげると。わーい。

    ミーティング終了後、楽屋で数時間、メール書いたり、急いで書かねばならない短い文章を書いたり。途中、昼食をたべにいったり。で、いったんホテルに戻って一休みしていたら、部屋に電話が。十八時からWAUで、ディスカッション前に出演者全員で打ち合わせの予定になっているんだけど、連絡はいってないか? と。聞いてなかったけれど、その十八時をもう過ぎてるので、とにかく今すぐ行きますと言って、すぐに行く。WAUでは大友さんとクリストフ・グークさんと、今夜のイベントの通訳をするまさよさんがテーブルについていて、僕が来てしばらくしてから高嶺さんも来た。このミーティングでは、具体的な進行の確認。おおまかにいうと、はじめは「あなたは二〇一一年の三月十一日、どこで何をしていましたか?」という質問から、すなわち個人的な体験を話題にするところからはじめる。そして次第に一個人としてということからアーティストとしてどう考えているかということへ、社会全体のことを話題にすることへと移っていく、というプラン。
    そしてこのプランは、フタを開けてみたら、うまくいかなかったのである。実際のディスカッションはどうだったかというのは、ここに Ustream がアーカイブされてもいるし、文字にして読むことができるようにする計画があるので、ここでは詳しく書かない。でも、どうしてうまくいかなかったか? ひとつは、震災以降の状況を、個人としてつまりあくまで主観として話すことは決して難しくないけれども(だって、誰にでも主観はあるから)、その状況を俯瞰するような視点で発言することは決してできない、ということがどうしようもなく確固なものとして感じられたから。たとえば、「日本の社会は、原発事故から二年半経った今、放射能の危険性に対してどのような考え方でいるのでしょうか?」といったような質問が、ベルリンの観客からなされたとしても、そんな質問には答えられない、というか、「日本の社会は」という主語が成立しうると、そもそも考えられない。だってそれは分断されているのだから。
    うまくいかなかった理由はもうひとつあると思う。《アーティスト》として震災以降の社会に向き合う、ということが問題にされようとしすぎたことだ。大友さんが特にこれに対する違和感を強く表明した。だって、大友さんは事故以降の福島の状況にひじょうに直接に向かい合ってきた人だけれども、特に震災直後の向き合いかたは、アーティストとして、とか、ミュージシャンとして、ということとは全然関係なかった。けれどもこの日の夜のトークは「社会におけるアートの役割は?」「アートは世の中の役に立つか?」という話題のほうへと、なんとなく促されていってしまった。促されていってしまった以上、「役に立つよ」「立たないよ」という話になる。でも、「アートが社会の役に立つか?」ということを話すために用いられなければならない夜だったわけでは、なかった気がする。トークは予定の二時間を大幅に超え、それなのに時間が足りない感をおおいにおおいに残したまま、イベントは終了。このあとも昨夜と同様、WAUにはたくさんの人が残る。結局、お客さんも消化不良だったのだ。僕もいろんなひとと話した。

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  • 平成二十五年十月二十四日

    • From : Berlin

    昼過ぎまでホテルで過ごす。お昼ごはんは、あまりにも連日WAUで食べ過ぎてさすがに飽きたので、ポツダム広場のほうに歩いていって、そこで期待通りアジア料理見つけ、フォー食べた。

    十六時から、WAUでアネミと、HAUの制作担当のヤナと、黄木と僕とでミーティング。『地面と床』をHAUで公演できたことを非常によろこんでくれていた。きのうのディスカッションについての感想というか反省、という話にもなった。でもこのミーティングのメイン・イシューは来年の話。
    ミーティングが終わって、メールボックスをのぞきにいったら、HAUの広報担当のアニカからメールが。彼女のもとに、かないみきさんというベルリンを拠点に活動してる日本人アート・ライターから、きのうのディスカッションの続きの鼎談をやりたいという申し出がきたとのこと。大友さんが明日のコンサートが終わったら、翌朝早くベルリンを発ってしまうので、やれるとしたら明日しかないのだけれど、すでに大友さんからは、やりたい旨を表明するメールがきていた。僕もやりたい旨を返信。で、高嶺さんもオッケーということで、話はとんとん拍子にすすんで、あしたのお昼からHAUの楽屋を借りて鼎談をすることになった。
    十七時半からリハーサル。レセプションの夜にもっとダメ出ししろと言われたからというわけじゃないつもりだけど、長いこと何もいわないままでいたシーンにダメ出しをして、そこを強化したり。そしたらぐっと厚みがます。あたりまえだけど。
    二十時から本番。大友さんが見に来てくれた。芝居そのものも楽しんでくれたけど、音楽も音響もすばらしかったと言われて、音響スタッフのうっしーはご機嫌。役者もみんな喜んでいて、終演後のWAUで、大友さんを囲んで話していた。ちなみに役者のひとり、矢沢さんは福島出身で、大友さんと高校がおなじなんだって。

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  • 平成二十五年十月二十五日

    • From : Berlin

    十二時少し前にWAUにいくと、高嶺さんとかないさんがすでに戸外のテーブルにいた。かないさんは、おとといのディスカッションのあとでWAUでおしゃべりしていたときに、同じテーブルにいた人だった、とお顔を見て改めて認識。あの時点ですでにこの続きをやったらどうかと考えていたらしいが、その場では切り出せなくて、、と言ってらした。でも、なんにしろこの機会のきっかけをつくってくれて、もうほんとありがたい。かないさんはいつもは海外のアーティストに取材して紹介記事を日本の雑誌に寄稿するという仕事をしているから、今日みたいに日本語で取材するのは十年ぶりくらい、とのこと。大友さんがきて、みなでHAUの楽屋へ移動。

    ここでした話は、一昨日のディスカッションの内容とともにまとめられて、どこかの媒体から発表される予定。とてもいい話ができた。憑きものが落ちた。みんなすっきり。またWAUにもどって、一同でお茶。高嶺さんは途中で、お子さんの保育園のお迎えの時間になって、帰っていった。大友さんから、『地面と床』の音楽の録音はこういう方法でやってるね、という話が聞けたのがおもしろかった。大友さんいわく、あれはオンマイクで録音しているよね、と。オンマイクというのは、楽器とマイクをできるだけくっつけて録音するということ(のよう)で、それによって、レコーディングが行われた場所の空間を感じさせない録音になる、すなわち、音源が再生される空間(この場合は、劇場)でその音が鳴っているかのような録音にすることができると。僕はレコーディングに立ち会っていたけど、そんなことをしているなんてこと、見ているだけでわかりっこないし、サンガツの人はそういう専門的なことはなにも言わないし、だから今まで知らなかった。
    それにしても、『地面と床』の音楽、劇場でリハーサルのつど、本番のつど、聴いているけれど、飽きない。演奏の《恥部》を隠さない録音になっているからだと、僕は思っている。恥部、というのは、ミス、ということではない。うまくいえないんだけど、え、そんなところ見せてもいいの? 隠さないでいいの? というような細部、いうなれば毛穴のようなものが、あられもなくそのまんまになっていて、いちいちそれがスリリングで、だから飽きないのだ。
    十六時半から一時間リハーサル。きのうの続きで、またちょっとしたところにこだわってみる。
    十七時半から、ベルリン自由大学の研究者、カイ・ファン・アイケルさんとWAUで会う。来年からはじまるリサーチ・プロジェクトに関わってもらえないかとのことで、話を聞く。そのリサーチというのが、ダンス・パフォーマンスにおいてダンサーたちの身体の動きどうしがつながりをもっていたりばらばらだったりすることが、社会的・政治的なコンセプトとか状況なんかとどのように関わっているのか? ばらばらな個人たちがまとまりをもった動きをするということはあり得るのか? われわれが、「一緒にやる」ということをはっきりイメージしないままに一緒に生活したり動いたり、なにかをやったりしてるとき、どうそれをうまいことやってるのか? ということをリサーチするという、なんだか壮大すぎてどうリサーチするのか僕にはちっとも見当のつかないリサーチ。でも、とにかくおもしろそうではあるので、スケジュールが合えば関わりたいなと思う。『地面と床』の話になって、カイさんが「ドイツ人はあんまり積極的に死者と関わりをもとうとはしない」と言っていた。でもハイナー・ミュラーは死者と対話しようとしますよね、と言ったら、ハイナー・ミュラーはハイナー・ミュラー、別にドイツ人の代表じゃないって言ってた。親とか恋人だったとかでもそんなに関わろうとは思わないらしい。え、そうなの? ほんとに??
    今日の僕らの公演は十九時からで、二十時からはみっつあるHAUの劇場のうちのうちらとは別のHAUでコンサート、大友さんのソロと灰野敬二さんのバンド不失者の二本立て。役者の多くは終演後コンサートに途中入場していた。僕はお客さんと話したりしてたからコンサートには行けなかった。美術家の塩田千春さんが来てくれた。中田さんという方を紹介してもらう。香川の丸亀市の猪熊弦一郎美術館のキュレーターで、もうすぐ金沢21世紀美術館に移られるのだそう。今はたまたまご夫婦でベルリンに来ていて、それでこの公演も見に来てくれた。奥さまは今年四国学院大学でやった『女優の魂』も見てくれているらしい。猪熊弦一郎美術館には行ったことがないけれど、塩田さんの個展も小金沢さんの個展もやっている美術館だから、前から気にはなっていた。塩田さんにはあしたも会うことになった。
    デュッセルドルフの劇場でこないだまでドラマトゥルクをしていた人(名前忘れてしまった、そこをやめたばかりで、今はベルリンにいる)が、やっぱりハイナー・ミュラーの話をしてくるのだった。ミュラーの言葉に、「ネクロフィリーとは未来について考えることだ」というのがある、と言われて最初全然ピンとこなかった。「よくわかんないんですけど、ていうかネクロフィリーって、死体とセックスするってことでしょ?」というと「そうだ、たとえばシェイクスピアとファックすることが……」と言いだしたので、言わんとするところがようやくわかる。そういや、『地面と床』のドラマトゥルクをやったせば(ドイツ人。本名はセバスチャン・ブロイ)は、ドラマトゥルクは降霊術だ、って言ってたな。こっちのほうがずっと品がよい言い方だけど、どっちにしてもなんかそういう言い回しっていうのが、きっと、ドイツ(語)的なんだろうね。僕の素直な感覚でいうと、ネクロフィリー、っていうふうには全然思わないんだけどね、もっと単純に、みんな生きているんだよ、ミュラーだってシェイクスピアだって、アメンボだって、と思う。でも、ここはドイツだし、そのドイツ的なノリを僕も使っちゃうと、今回の『地面と床』ベルリン公演は、ドイツの観客の、ハイナー・ミュラーとのネクロフィリーの仲介に一役買えたってふうには言えるかな。東京にいるせばにメールしたら「ドイツ人にミュラーのこと想起させたというのは、いいことですよ」って返事が戻ってきた。WAUで出会ったドラマトゥルクに、ミュラーを読んだことある? と聞かれ、ほとんどないでーす、と正直に答えたら、”TODESANZEIGE”というテキストを読んでみてほしいと言われた。たぶん、日本語訳はあるだろうと期待。
    コンサートも終わり、WAUにはさらにまたたくさんの人びとが。日本人のお客さんも、今までのベルリン公演のなかでいちばん、たくさん来てくれた。これは、これまで毎年公演ここでやらせてもらったことの積み重ねの成果なのかな、うん、きっとそうだ。というわけで、ベルリン公演は無事終了。あしたとあさってはオフ。

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  • 平成二十五年十月二十六日

    • From : Berlin

    オフ一日目。お昼まえに塩田さんがホテルの前まで迎えに来てくれた。そのまま、塩田さんが案内してくれるままにベルリンを、おしゃべりしながら歩く。最初はチェックポイント・チャーリーに行く。というと、なんだかふつうにベルリン観光だけど、僕ははじめてここに来たのだった。博物館も見る。そこからまたぶらぶら歩いて、州立オペラ劇場のほうへ。そこの広場の地面の一部に、一辺一メートルたらずの大きさの四辺の、ガラス張りの小さな切り穴が空いていて、そこを覗き込むと、地下にあるただただ真っ白な、空っぽの書架がみえるという、イスラエルのアーティストがつくった、一九三三年に行われた焚書を記憶するためのインスタレーションがある。さらに歩いて、大聖堂やテレビ塔のある界隈を通って、さらに行ったところにある SOHO HOUSE という瀟洒なホテルのレストランでお昼を食べて(なぜそんな気取ったところで食べたのかというのにもいろいろあるんだけど割愛)から、タクシーに乗って、完成間近の塩田さんの新居兼アトリエをみせてもらう。そのアパートメントは、もともとは東ドイツの秘密警察の建物だったのを改装したものだそうで、屋上には、監視のための小屋がくっついてた。ひさしぶりにいろいろな話ができてよかった。四年前に僕との仕事ではじめて舞台美術をやった塩田さんは、その後もわりとコンスタントに舞台の仕事をしている。来年もドイツ北部のキールって街でワーグナーのオペラの美術やるらしい。

    塩田さんのところを辞去してタクシーに乗って、今度はWAUでニナとマロアンと待ち合わせる。展覧会をひとつ見よう、それから自転車でクロイツベルク(というのはHAUのある地域のこと)をぐるっとまわろう、ということになって、僕はHAUのとなりにあるユースホステルから自転車をレンタル。
    それにのってまず、ベルリナー・フェストシュピーレという美術館へ。ここでシュールレアリスムとかダダイズムの作家、メレット・オッペンハイムの回顧展を見た。僕はこの作家、寡聞にして今日まで知らなかった。彼女のいちばん有名な作品は、毛皮のコーヒーカップなのだが、それを所蔵しているニューヨークのMOMAが、その作品の持ちだしを、拒否ったらしい。だからそれはここにない。その出世作以降、オッペンハイムは長きにわたるスランプに陥ることになるそうで、オッペンハイムの毛皮カップは、成功したけどおかげでインスピレーションがブロックされてしまうこと、の代表例として学生のときに教わった、とニナは言っていた。同じ建物でアーニッシュ・カプーアの個展をやっていることを知り、それにも興味をひかれる。金沢21世紀美術館で見て以来、この人すごいなあと思っていたから。そう言うとニナとマロアンに、だったらカプーアも見る? と言われたけど、どっちにしろ体力的に今日はもう無理だから、見るのはあしたにする。でも、ここから自転車でひたすら街をまわったわけなので、結局は個展ひとつみるくらいの、ていうかそれ以上の体力は使うことになったんだけど。
    アフリカからドイツに移民してきた人びとが抗議のキャンプをしている小さな公園の前にいく。その人たちはドイツ政府から、住む都市を指定され、それに従わなければならず、住みたいところに住む自由、移住の自由が与えられていないらしい、これはそのことに対する抗議で、緑の党がこの活動を支援しているそうだ。
    そのそばの、モーリッツプラッツという駅のすぐ前に、なんだか大きな菜園スペースがある。ここは、いってみれば共産主義的な趣旨で運営されている菜園で、趣旨への賛同者たちひとりひとりによって育てられている作物は、ある個人のものではなくて、その人たちみんなのもの。それにしても、こうやって誰かに街を、たとえばベルリンを案内してもらうと、その人にとってのベルリンというのを見せてもらえるからおもしろい。塩田さんが見せてくれるベルリンとニナ&マロアンが見せてくれるベルリンは違う。さらに大きな公園の中を抜けたり、サイクリングして、お腹がすいてきたので夜ご飯。タパスのお店に入る。ここは、最近ドイツでは公開されているらしい往年のF1レーサー、ニキ・ラウダのことを扱ったハリウッド映画の主演(つまりニキ・ラウダ役)をしているスペイン出身のドイツ人俳優のなんとかという人(失念)もよく来るお店らしい。おいしかったし、スペイン系の人たちで賑わっていた。店内の大型モニターでは、スペインのサッカーリーグの試合、バルセロナとマドリッドがやっていて、みんなわーとかおーとかため息とかしながら見てた。ライブ中継だったのかな。
    僕は二十時からHAUで芝居を見る予定があって、時間が迫ってきたので激チャリでこの自転車借りたユースホステルへ。保証金を返してもらって劇場へ。エディット・カルドーというブダペスト出身のアーティストの《Woe》という作品を見る。ホテルに戻る。もうへとへとだった。

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  • 平成二十五年十月二十七日

    • From : Berlin

    目ざめると疲れはとれている。今日からヨーロッパは冬時間で、日本との時差が七時間から八時間になった。腕時計の時刻を直す。今日は小金沢さん一家にもういちど会おうと思っているのだけれども、その前にカプーアを。十一時まえにホテルを出て、歩いてベルリナー・フェストシュピーレへ。《カプーア・イン・ベルリン》。こないだのディスカッションなんかで話題になったこと、アートは役に立つか、という問いの答えなんて言うまでもない、と思った。具体的な事例としてなら簡単にそう断言できるし、具体的な事例としてしかそう言うことは難しいけれど、たとえば僕にとってアーニッシュ・カプーアは、あえて言葉にするならば、神秘というものはどんなにその化けの皮をはがそうとしたって存在しうるのだ、ということを見せつけてくれる作家であり、そのことを見せつけてもらえることは僕にとってすごく大切であり、だからアーニッシュ・カプーアの芸術は超役に立つ、と言い張れる。

    展示室のひとつに、大砲が据えられている。砲口の向いている向こう側の隅の壁は、赤い色の蝋でべちょべちょに汚れている。蝋の塊を大砲でそっちに向けてぶっ放すという、アクションペインティングを拡大解釈したもの(とカプーアは言ってる)が行われるようで、これはやっぱり見たいなということで、そこで待つ。次の回がいつ始まるかわからないけれど、発射時の大きな音から耳を守るための、ヘッドホン状のものを装着したまましばらく待っていると、つなぎを来たそれっぽい兄ちゃんが登場。大砲と来場者たちのあいだにある柵を乗り越え、準備をはじめる。空気の圧縮かなにかに時間を要するのか、単に気をもたせているだけなのか、すぐに発射されるわけではなくて、その時間をすごすだけでバカらしいけれどドキドキしてくる。やがてそれまでしていた薄い物音がピタッとやんで、あ、いよいよくるぞ、とわかる。で、発射。ボンッ。赤い蝋のかたまりが、べちゃ、と壁にへばりつく。終了。
    ベルリナー・フェストシュピーレの面している通りをそのまままっすぐ、きのうニナとマロアンと自転車でいったのと同じルートを歩く。名前とか知らないのだけど、落葉樹の一種の、竹とんぼみたいな具合の形をしている葉が、そのいちばん下の部分に種をつけて、くるくる旋回しながら舞い落ちているのを、よく目にする。今朝読んだ小金沢さんからのメールでは、十三時ごろにはプリンツェッシンネンガルテンというカフェにいる予定、とのことだった。今日はこないだ塩田さんに紹介してもらった中田さん夫妻といっしょにフリーマーケットをめぐるのだそう。で、そのプリンツェッシンネンガルテンっていうのがどこにあるのか、僕はわかっていないのだけれど、モーリッツプラッツのそばだと書いてあったから、とりあえず駅のほうへ行ってみた。で、きのうも寄った菜園スペースの入り口を見てみると《prinzessinnengarten》て書いてある。なんだ、ここだったのか。なんとなくそうなんじゃないかなと思ってはいたんだけどね。中に入ったら、みんなテーブルについてお昼をたべていた。僕も合流。
    そのあと、中田さんたちにテンペルホーフを見せよう、ということでついていく。U8の地下鉄でモーリッツプラッツからボディンストラッセという駅まで。いついってもテンペルホーフはおもしろい場所だなあと思う。今日は風が強くて、凧揚げしてる人、陸ウィンドサーフィンといえばいいのか、スケボーにヨットの帆をつけたやつをやってる人がたくさんいた。けれども雨がぽつりと来はじめたので、僕らはそばのカフェに入る。で、またおしゃべり。やがて、僕がそろそろ次の用事に出向く時間になったので、一同カフェを出ると、雨はやんでいて、テンペルホーフのすこんと抜けた空の、はじまりかけの黄昏がきれいだったから、また公園入り口まで吸い寄せられてしばしみんなで魅入る。
    途中まで一行と一緒のU8だったけれど、途中で別れ、僕は地下鉄を乗りついでエバースヴァルダーストラッセまで行き、そこから市電に少しだけ乗って、内橋華英さんのお宅へ夜ご飯をご馳走になりにいく。魚を食べさせてくれるらしい。内橋家は、去年ベルリンに越してくるまではウィーンにお住まいだった。僕らがウィーン公演したとき、何度か遊びにいかせてもらった。今日は夫の和久さん(そう、内橋和久さん)は仕事でベルリンを留守中だったのでお会いできなかったけど。僕だけちょっと早く到着した。それから少しして、音響のうっしーと役者の安藤さんも来た。ししゃもとか銀だらなどをいただく。このときもいろんな話をしたな。でも酔っ払ったし何話したかあんまりおぼえてない。安藤さんは途中で帰り、うっしーと僕は心ゆくまで居た。それでなんとかホテルに帰ってきた。それにしても過密スケジュールをこなしたな、この二日間のオフ。

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